2017年7月24日 (月)のBlogに続き、2017年7月16日、メシアニックジューの教会、Richard Hill 牧師が執り継いでくださった聖書のメッセージの日本語翻訳(第2回)をお届け致します。
8-9節で、主の使いはハガルに彼女がサラの奴隷であり、彼女はサラの主人としての権威に服するべきであったことを思い起こさせています。これは、この両者の間で確認される第二の問題です。ハガルは最初にサラを見下し、今度は自分にうぬぼれて、サラの権威に服さなかったのです。
このような問題は、神様の導きの中で解決しなければ、侮りと憎しみを産んでしまいます。一族または家庭の中で軽蔑された女性と一緒に暮らすことほど苦しい事はありません。
家庭円満の邪魔になるこれらすべての肉的な問題にもかかわらず、主の使いは、彼女の子孫を増やすという大いなる約束をもってハガルを祝福します(10節)。主の使いは、その数は数えきれないほどになるとさえ言います。世界中のイスラム教徒は、ハガルの息子イシマエルを、イスラム教の重要な予言者また創始者と見なしています。
イスラム教徒たちは、イシマエルを幾つかの傑出したアラブ種族の先祖として認めています。彼らはまた、彼らの予言者モハメッドを偉大な国家と世界支配の構築のための手助けをするイシマエルの子孫と信じています。
世界中のほぼ20億人のイスラム教徒たちのほとんどは、彼らの血縁的また霊的ルーツをイシマエルと彼の父アブラハムまでたどります。ですからハガルは世界中のイスラム信仰の女家長になるのです。
11節で、主の使いは、ハガルが男の子をみごもり、彼の名を「神は聞かれる」という意味の「イシマエル」と名づけなければならないと宣言します。主は彼女が泣くのを聞かれ、彼女の苦しみを心に留められました。また12節では、主の使いは、私が「4つの争いの預言」と呼ぶものをもって宣言し続けます。
最初の争いの預言は、イシマエルが「野生のロバのような人となる」というものです。この比喩は、イシマエルの気が狂ったような態度と混ぜ合わせられた彼の荒々しい無骨な性格を表わしています。野生のロバは、あるいは飼い慣らされたロバでさえ、はっきりした理由もなく自制心を失うことがあるのです。
ある瞬間、彼らは大人しくても、次の瞬間、彼らはまるで彼らの命がそれに依存しているかのように、制御できないほど蹴ったりわめいたりします。これは、イシマエルの性格の特性で、彼は荒々しく自分を制御できなくなるのです。 またこれはイシマエルの性格の特性であるだけでなく、彼の子孫にまで受け継がれている彼らの性格の特性だと私は思っています。
第二の争いの預言は、「イシマエルの手は、すべての人に逆らい」と言っています。彼はすべての人に対して攻撃的で、敵意に満ち、ふるまいにおいて好戦的です。この種のふるまいは、その人の人生に常に混乱をもたらします。
第三の争いの預言は、「すべての人の手も彼に逆らう」と宣言しています。人が好戦的で彼らの同胞に対して攻撃的である場合、彼らの同胞は通常、攻撃的また挑戦的な態度で対応してきます。昔の格言に「自業自得」とある通りです。戦いが好きな人は、そのうち戦う相手を見つけるものです。
第四の争いの預言は、イシマエルが「彼はすべての兄弟から離れて住む」と述べています。「離れて」というのは、二つのヘブル語「al panim」から成っています。「Al」とは「~に、~の上に、~に関する、~に対して」という意味で、「Panim」は「顔、表情、存在」を意味します。
この対立の文脈において、この句は、イシマエルが「すべての兄弟に敵対して住むであろう」と訳すのがより良いと思います。イシマエルはすべての人に対して攻撃的で好戦的であると既に預言されているので、彼は明らかに兄弟たちに対しても敵対的なはずです。
歴史はイシマエルが最終的に今日のサウジアラビアに当たるアラビア半島の東部に住みついたことを支持します。彼の兄弟は、すべてのイスラム教徒、アラブ民族とペルシャ民族、そしてユダヤ民族(忘れてはなりません)を含んでいます。
イシマエルとイサクは血を分けた兄弟で、彼らと彼らの子孫の間には愛がなければなりません。 ところが、兄弟としてお互いに愛し合う代わりに、たくさんの怒りと憎しみが敵同士となった彼らの間にはありました。
エゼキエル35:1-5、15にこうあります。
次のような主のことばが私にあった。 「人の子よ。顔をセイルの山に向け、これについて預言して、 言え。神である主はこう仰せられる。セイルの山よ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえにわたしは手を伸ばし、おまえを荒れ果てさせ、荒廃した地とする。 わたしがおまえの町々を廃墟にし、おまえを荒れ果てさせるとき、おまえは、わたしが主であることを知ろう。 おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。(35:1-5)
おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが主であることを知ろう。(35:15)
エゼキエルは、イスラエルに対する他国の大きな憎しみが一体どれほどのものだったのかを私たちに教えています(特にここではエドムのことだけが言われていますが)。1-4節では、セイル山に対する主の宣言です。主は、セイル山とその町々を荒れ果てた廃墟にされるのです。
主がセイル山を破壊される理由のひとつは、彼らがイスラエルの神が主であることを知るようになるためです。神は不可解な方法で、また時々、破壊的な裁きを通して、人々や国家を悔い改めに至らせようとされます。私は、これがまさに神がここでしておられることだと信じています。
それは破壊がもたらされれば自動的にこの国民がイエス様を信じるようになるという意味ではなく、少なくともイスラエルの神が彼らを裁いておられることを理解するという意味です。
そこで、「セイル山とは誰のことか?」という疑問が湧いてきます。15節はその答えを私たちに語っています。セイル山はエドムの全国民を表わしているのです。思い出してください。今日、エドムはヨルダンの南西に位置しています。
この地域は今日、多くの都市と合計200,000人以上の人口を抱え、繁栄しています。15節の終わりに、神は、彼らがこの恐ろしい破壊を通してイスラエルの神が主であることを知るようになると二度目の宣言をしておられます。
多くの信者は私に、「エドムは既に裁かれているのではありませんか?」と質問します。はい、裁かれています。しかし、聖書のこの部分に述べられている範囲においてではありません。主は7節において、エドムは荒れ果て、廃墟となると再び宣言しておられます。
8-9節は、これが真実であることを知る鍵です。8節では、エドム人の死者が彼らの山々を満たし、丘や、谷や、渓谷をさえ満たすと言われています。これは、死者が国中に散らばっていることを意味します。
9節は、彼らの都市は誰も住まず、エドムは永遠の廃墟となると深刻に述べています。これらの特定のさばきは、イエス様の再臨の出来事に似ています。
リチャード・ヒル牧師
次回(3回目)は、7月31日(月)掲載予定です。
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