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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

444:聖書が教える真理_convert_20190713013618


聖書が教える真理


 聖書の発行部数は、年間約5億8000万冊で、2300以上の言語に翻訳され、その実績から「永遠のベストセラー」と言われてきました。聖書が他の追随を許さない驚くべきベストセラーであり続ける理由は、それが人間の言葉ではなく神の言葉だからです。


 テモテ第二の手紙3:16を見ると、「聖書はすべて神の霊感によって書かれた」とあるように、聖書は神が聖書記者たちに霊感を与えて、書かせられた神の言葉です。ですから、聖書の中には「主がこう言われた」「神がこう語られた」という表現が、実に2600回も繰り返されているのです。


 アポロ14号が月に行ったとき、16ヶ国語で書かれた4500ページの聖書が月に運ばれました。聖書は、地球から他の天体に運ばれた最初の本です。聖書はあらゆる意味で偉大で、世界中の多くの人々に計り知れない影響を与えてきました。


アブラハム・リンカーンは、「聖書は、神が人間に下さった最良の賜物である。人間にとって望ましいものはすべて聖書にある」と言いました。インド独立の父マハトマ・ガンジーは、「私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書である」と言いました。


あなたは、このような聖書を読んだことがありますか? その内容をどれくらいご存知ですか? リンカーンやガンジーのような偉大な人々がそのように評する聖書を知りたいと思いませんか?


 聖書はまた預言の書で、その預言の的中率は100%です。その驚くべき不思議な事実を通して、人々が神の存在を知り、聖書を神の言葉として受け入れるように神は願っておられるのです。


 では、なぜ神は聖書によって私たちに語ろうとなさるのでしょうか。それは、私たちが神について、また自分自身について、そして救いについて知ることができるために、どうしても「神の言葉」が必要だからです。つまり人間がどんなに考えても分らない事を示すために、神からの啓示が必要だったのです。


 聖書には、一貫し、完結した、明解な世界観が記されています。人類の始まりから終わりまでの歴史を記し、すべての人が絶対に聞かなければならないメッセージを伝えています。


 そのメッセージとは何でしょうか? それは、一人の例外もなく、すべての人間が自分の罪のために永遠の滅びが定められているという事実です。また同時に、神はすべての人を愛し、すべての人を永遠の滅びから救い出すために、イエス・キリストによる救いの道を用意して下さったということです。


 人間は、いくら考えても、死後のことを知ることはできませんが、神の言葉である聖書は、人間の死後について、次のように厳粛に告げています。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9:27)

 人間は、だれでも必ず死ぬ時が来ることを知っていますが、「人は、死んだらどうなるのか」という問題に対して、殆どの人は漠然としていて、「分からない」と答えます。また、「死んだ後は無になってしまう」という人もおられますが、その根拠となるものはなく、ただの推測に過ぎません。 人間というものは、とかく自分が望んでいることを信じたがるものです。


 しかし、聖書は、はっきりと、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と宣言しています。


 これは、何と厳粛な言葉ではないでしょうか。すべての人は、いつか必ず死ななければならない存在です。これには、いかなる差別もありません。老人だけでなく、若い人もやがていつか必ず死ぬ時が来ます。病弱な人だけでなく、健康な人も、やがては必ず死ぬ時が来ます。貧しい人だけでなく、金持ちも例外なく死ぬ時が来るのです。また、身分の低い人だけでなく、一国の大統領や王様も死ななければない時が必ず来るのです。


 だれでも、病院の医者から「あなたは癌です」と告知されたら、非常に大きなショックを受けるでしょう。なぜでしょうか。死ぬのが怖いからです。しかし、このような死よりもさらに大きな問題は、すべての人が死んだ後にさばきを受けることが定まっているという事実です。そして、その事実を知ろうが知るまいが、この事実は変わりません。


 とすれば、この世でどんなに恵まれた生活をしている人であっても、この死の問題に解決がない限り、人は絶望の中で生きている存在なのです。


ですから、この「死と死後」の問題は、軽々しく取り扱うべき問題ではなく、非常に厳粛な事柄なのです。そして、この死の問題に本当の解決を与えるものがイエス・キリストの福音なのです。



今日の一言: 聖書は真理の言葉



鶴田健次


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2019.07.13 01:37 | お知らせ

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敵への愛は自分のためのもの



 自分の子供にはたっぷりの愛情を注ぐのに、他人の子供にはそうすることを惜しむお母さんがいます。なぜなら、そのお母さんは、愛は注げば注ぐほど減るものだと思うからです。だから他の子供には使えないのです。しかし、本当の愛は、使えば使うほど、その人の中で育ち、増えていくものです。

 もしあなたが、自分の気に入る人が現れたら、その人を愛するけれど、そういう人がいないから愛が湧いてこないと考えるなら、それはちょうど素晴らしいピアノが目の前にあったら自分は上手に弾けるのにと言うのと同じです。立派なコンピュータを手にしたら自分は上手な文章が書ける。立派な勉強部屋があったら自分は偉い学者になれると言うのと同じです。


 一度もピアノの練習をしたことがない人が、どうして上手に弾けるでしょうか。毎日練習をしていればこそ上手に弾けるのです。だから、いつも、この人は肌が合わない。この人は苦手だ。この人は愛するに値しない。そう思っている人には、愛が湧いたり、愛が育つことはありません。


 むしろ肌の合わない人、苦手な人、平凡な人、つまらない人と思う人を、自分にとって意味のある人、大切な人、愛すべき人としていくときに、その人の心に愛が育っていくのではないでしょうか。なぜなら本物の愛は感情の愛ではなく意志的な愛だからです。


 「敵への愛」を試みようとしない人、いつまでも練習しない人は、いつまでもその愛が、身内への愛、仲間うちへの愛、利害を共にする者への愛、自分によくしてくれた者への愛という感情の愛にとどまるのです。

 自分の子供を愛するお母さんには愛があります。しかし、それが自分の子供だけにしか注がれない愛ならば、その愛は愛であっても、他の人に対しては決して使われない種類の愛です。


 自分の仲間しか愛さない愛、自分と利害が一致する者しか愛さない愛、自分の身内しか、自分に感謝してくれる相手しか、自分に特別なことをしてくれる相手にしか注がれない愛は、どんなに犠牲的な愛のように見えても、それは欲望と執着で凝り固まった愛です。

 イエス様は、愛は愛でも、自分を愛してくれる者以外には、妬みや、恨み、無視、反感、意地悪となって現れる愛があることを、敵を愛する愛で教えようとされました。そして、そこに留まる限り、人はイエス様が語られる愛に出会うことはないのです。

 皆さんは、キムデジュンという方を覚えておられるでしょうか? 日本では金大中と言われていた方です。1970年代から80年代にかけて何回も投獄され、裁判では繰り返し死刑判決を受けながら、その後、韓国の大統領になられた方です。


 この人が獄中から家族や友人に出した手紙が「金大中獄中書簡」という書名で出版されています。その中に、三男の金弘傑(キムホンゴル)氏に当てた手紙があります。その一部をご紹介します。


「愛する(ホンゴル)よ。お父さんは誰も恨まず、誰も憎まない。お父さんがこうした心の変化を得るようになったのは、以前の3年間の獄中生活の時、神の教えについてたくさんの本を読み、イエス様の言葉と行動を思い、自分のこととして受け入れる中で、私が本当にイエス様の弟子になろうとするなら、この道しかないとハッキリ思い知ったからだ。そればかりか、お父さんは自分のこれまで犯してきた罪と過ち、そして、人知れず抱いた邪悪な思いを知っている。そうした私の罪をスクリーンに映し出すように、主の前でひとつひとつ挙げていく時、果たして私が誰を裁き、誰を断罪することができるのかと痛切に感じるのである。私たちは自分が罪人であるがゆえに、他者を、敵さえも赦さなけれぱならない。赦しは神の前にあって最も強い愛だけがなし得る。赦しはあらゆる人々との平和と和解の道だ。それだから、赦しは喜びの心をもってしなければならない。私たちはイエス様が十字架で釘打たれながら、ご自身を処刑した人々をお赦しになったことを無駄にしてはならない。一生の間、他者を理解し、赦し、愛する生活をしようと努力するなら、必ずやお前の将来は、物質的あるいは社会的地位や名声がどうであっても、決して悔いのない平和と喜びの生涯を送ることができると確信する。お父さんはこうしたことに気づくのが、あまりにも遅かったと残念に思っている。」

 いかがでしょう。イエス様が「敵を愛しなさい」と言われる時、それは敵のためではありませんでした。それは憎しみに囚われ、人生を間違えてしまう私たち自身のためでした。

 イエス様が金持ちに「施しなさい」と言われる時も、それは貧しい人たちのためではありませんでした。金持ちが金銭に囚われ、人生を大切でもないもので一杯にしないようにするためだったのです。



今日の一言: 人を赦し愛することは自分自身のため



鶴田健次


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2019.07.06 06:13 | お知らせ

牧師室より#388「多くを赦された者は多くを愛する」_convert_20180602015102 


『多くを赦された者は多くを愛する』



今回はルカの福音書7章に出てくる『罪の女の赦し』の物語を通して考えてみたいと思います。この物語はルカの福音書にだけ出てくるイエス様のお話ですが、ルカの福音書の一つの特徴は『愛』です。


もちろん、どの福音書も『愛』を語りますが、ルカは、特に、この世から疎外され、人から相手にもされない人間が、イエス様の愛によって神のもとに招かれている、そういう愛について語っています。


まず、この物語から教えられる第一のことは、イエス・キリストは人の心を受け取られる方であるということです。乞食、犯罪人、売春婦、収税人・・・、聖書には、このような世の中では落ちこぼれと言われる人々が登場します。


彼らは苦しんでいましたが、ユダヤ教の指導者的な立場にあったパリサイ人たちは決して彼らを憐れんだり、彼らに救いの手を差し伸べたりしませんでした。それどころか彼らを『罪人』と呼んでさげすみ、彼らの心の傷に塩をすり込むようなことをしていました。


そんなパリサイ人シモンとイエス様が食卓についておられると、突然、ある札付きの売春婦がイエス様に会うためにやって来ました。怪訝な顔をする人々をよそに、彼女は脇目もふらずイエス様に近づき、泣きながら足下にひざまずきます。そして、その涙でイエス様の足を濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、心を込めて足に口づけをし、その上に高価な香油を塗りました。


この女性は、以前にイエス様との出会いがあったのでしょう。イエス様からありのままの自分を受け入れてもらい、また醜い自分の罪を赦してもらい、心から湧き上がる感謝と喜びが力となって、その罪の生活から立ち直ることができたのです。イエス様に愛され、赦され、受け入れられるという経験は、人の人生を変えます。


次に、ここから学ぶ第二のことは、人には誰でも霊的な負債があるということです。ここでイエス様は、短くて、簡単なたとえ話をされます。500デナリと50デナリの借金を帳消しにして貰った人の話です。今で言えば、5万ドルの借金と5千ドルの借金ということです。当然、5千ドルよりも、5万ドルの借金を帳消しにしてもらった人の方が、金貸しに対する感謝の気持ちも大きいでしょう。イエス様から聞かれると、シモンもそのように答えました。しかし彼は、そのことが自分にとってどんな意味を持つのかを知りませんでした。


ここで言われている5百デナリと50デナリの借金が象徴するのは、自分の中にある罪の自覚の大きさです。またここに登場する金貸しは、どんなに多額の借金も帳消しにして下さる神様のことです。つまり、人は誰でも神様に対して罪という負債を負うており、その負債に本当に気付くなら、神様はその負債を帳消しにして下さるということです。


しかし、その負債は、本来すべての人が同額であるのに、人によってその額に対する自覚が違うのです。自分の罪の大きさに気付き、その罪を赦して下さる神様の愛を知ることが出来たのは、パリサイ人のシモンではなく、売春婦でした。


この物語から学ぶ第三のことは、多くを赦された者は多くを愛するという法則です。イエス様にとって、この女は売春婦というよりも、神の救いに感謝する人でした。イエス様がご覧になれば、売春婦だろうが、パリサイ人だろうが、神様の前に罪という負債を持った者であることに変わりありません。


もし、神様がその償いを要求されれば、売春婦も、パリサイ人も、永遠の滅びを免れることはできないのです。しかし、気前のいい金貸しに象徴される神様は、その途方もない愛と憐れみをもって二人の罪を赦して下さるのですが、赦された二人の赦された罪に対する自覚が大きく違っていました。そして、その違いがイエス様に対する二人の態度に現われています。


イエス様を食事に招いたシモンの態度は冷淡でした。一方、この女は、イエス様を愛して止まない行動を取りました。シモンは、この女は罪深く、自分は正しいと思っていましたが、真理は逆で、女の方が正しいことを行ない、シモンは愛に欠けることをしていたのです。この違いは何を表しているのでしょうか。


イエス様はこう言われます。『この女は多くを愛したから、その多くの罪は赦されているのである。少しだけ赦された者は、少しだけしか愛さない』と。 あなたは、どれだけイエス様を愛しておられますか?


今日の一言:多くを赦された者は多くを愛する



鶴田健次



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2018.06.02 01:51 | お知らせ

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