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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#357「十字架のことば」_convert_20171021025916 


『十字架のことば』

 


以前から、多くのアメリカの教会を巻き込んでいる非常に困った動きがあります。それはシーカーズ・フレンドリーと呼ばれるもので、人々に直ぐに福音を語らずに、先ず友達になり、愛をもって受け入れてから福音を語ろうという考えです。   


もちろん、この方法は、ほとんどの教会が昔からやってきたことですが、シーカーズ・フレンドリーというのは、それとは違うのです。彼らの主張はノンクリスチャンが嫌う罪の話や、地獄の話、悔い改め、などの話を一切しないで、ただ神の愛だけを語ろうということで、その結果は、今まで健全であった多くの教会が世俗化し、霊的な力を失わせています。  


使徒パウロは、十字架に付けられたキリストだけを語り続けました。それは十字架のことばこそが神の力であり、聖霊が人々の心を悔い改めに導くために用いられるものだからです。    


①神の知恵で知る十字架の奥義

   

コリント人への手紙には知恵という言葉が頻繁に出てきますが、これらの知恵は二つの種類に分けることができます。それは、『この世の知恵』と『神の知恵』です。


ギリシャ人に代 表されるこの世の知恵は、偉大な神の存在を自分の頭で理 解しようとしました。そこで神は、誰にでも認められる人間の姿をとって人々の前に来て下さり、神が人となられたという愚かな“たわごと”にしか聞こえない、謙遜の限りを尽くした愛のメッセ ージによって信じる者を救うこととされたのです。  


しかし、この愛のメッセージが心に響くには、私たちが罪人としての自分に気付かなければなりません。もちろん、自分の頭で罪を理解しても、イエス・キリストを信じるなら救われます。しかし、それではこの愛のメッセージは心に響きません。聖霊の働きによって心から自分の罪に目覚める時に、私たちはこの愛のメッセージに言い知れぬ感動を覚えるのです。これが私たちを救う神の知恵です。 

   

②十字架のことばは神の力

   

使徒パウロはヨーロッパに福音を宣べ伝えましたが、そこで彼の働きを阻止しようとして彼の前に立ちはだかるものがありました。それはギリシヤ哲学でした。ギリシャ哲学に傾いた人々は弁論が得意で、『知恵のことば』を求めました。


しかしパウロは、「私は知恵のことばではなく、十字架のことばを語る」と言いました。なぜパウロがそう言ったかというと、『十字架のことば』にしか人を救う力がないからです。  


第一コリント1章18 節に、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」とあります。


さらに24節には、「しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」とあります。


これは、『十字架のことば』こそが人を救う『神の力』だということです。いくら『知恵のことば』を用いて人を感動させても、それでは人は救われません。人間の『知恵のことば』には人を救う力がないからです。   


③天国と地獄

   

 神の言葉である聖書は、死んだ後に永遠の世界があることを明らかにしています。それは人間がどんなに考えても知り得ない世界であり、人間を造り、死後の世界を支配しておられる神だけが知る世界です。


その聖書によれば、死はすべてのものの終わりではなく、死んだ後に永遠の世界があることが分かります。そして、その永遠の世界には二つの世界があり、義人(罪のない人)は天国に行き、罪人(神の戒めを破った人)は地獄に行くことが定められているのです。 


そこで問題は、あなたは義人であるか、それとも罪人であるか、ということです。それに対して、聖書は、「すべての人が罪を犯した」と宣言します。つまり、生まれながらのすべての人は、その罪のために永遠のさばき(地獄)が定められているのです。 


そこで愛の神は、人間の罪をさばくために、御子イエス・キリストを身代わりとして十字架につけ、信じるすべての者の罪を赦し、救いの道(天国への道)を開かれたのです。 



今日の一言:十字架のことばだけが人を救う


鶴田健次



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2017.10.21 03:00 | お知らせ

牧師室より#356「救いは信仰による」_convert_20171013180833 


今日は、ローマ書1:16-23から、"救いは信仰による"ということを考えてみました。   



今、世界には「信頼」というものが失われています。私たちの住む社会は、いくら問題があったとしても、お互いを信じ合う心があれば、多くの問題を乗り越えることができます。しかし、互いに信頼できなければ、一日たりとも安心して過ごすことはできません。また、いくら素晴らしい家に住んでいても、家族の間に信頼がなければ家庭は幸せではありませ ん。信頼は、どこに行っても求められるものです。   


しかし、私たち人間は、これだけでは生きることはできません。私たちを最も根本的に生かすものは、水平的な信頼ではなく、垂直的な信頼です。つまり、社会的・人間的な信頼ではなく、霊的な信頼、霊的な信仰が人を生かすのです。そして、その霊的信仰は、私たちの主イエス・キリストを信じる信仰なのです。   


①福音の力   


使徒パウロは、このローマ書の中で、福音という言葉を何度も使っていますが、結局のところ、この福音をこの世に伝えることが聖書が記された目的であり、教会の使命も、一言で言えば、福音を伝えることです。


福音とは「良い知らせ」という意味ですが、それは世間一般の良い知らせではなく、人間の根本的な罪の問題、人間の魂の救いに関する問題を解するための「良い知らせ」です。つまり、神の独り子イエス・キリストが私達の罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられ、それを信じる者は誰でも罪が赦され、天の御国に行くことができるという「良い知らせ」です。   


どんなに丈夫で、厳重なドアであっても、そのドアを開ける鍵があれば、簡単に開けることができます。その意味では、「福音」は鍵です。救いの唯一の鍵です。信仰によって与えられる天国への唯一の鍵です。そして、この福音には驚くべき力があるのです。福音には、人の魂を救い、変えさせる力があります。また福音には人生の苦難を乗り越えさせ、失敗から人を立ち直らせる力があるのです。   


②神の自然啓示   


イエス・キリストを知っている今の私たちにとって、キリストを受け入れて信じれば救われ、それを拒み、信じなければ裁かれて永遠の滅びに至るということは明らかなことです。しかし、救いの根本原理は、救いは信仰によるということで、その信仰は現された神の啓示に対する信仰であるということです。   


ローマ1:17の前半を見ますと、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」と言われています。


つまり、いつの時代にも、神の義、つまり神と人との正しい関係は、神を信じる信仰を通して実現されてきたということです。では、神のことを全く聞いたこともない人はどうなのかという疑問がわいてきます。それに対して、パウロは、ローマ1:19 で、神の自然啓示を考えれば、人には神のことを知らなかったという弁解の余地はないと言い切るのです。   


③神の御怒りを受ける人々   


このように、私達はこの美しい自然を造り、素晴らしい救い主を通して生きる信仰の祝福を下さった神様に感謝をするべきですが、この世には神の臨在と神秘を悟らない人たちがたくさんいます。


聖書は、「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」と言っています。また、愚かな者は、むしろ虚しい偶像を拝みます。そのような人は愚かな者であり、彼らは神の御怒りを受けると聖書は指摘しています。   


神様は確かにおられます。自然界をよく見れば、もはや弁解の余地はないのです。自然界を見て、神の存在を知りながらも、神に感謝もせず、礼拝をささげない人は、自分を知者だと思っていても、本当は愚かな者なのです。


聖書は、本当の神様ではなく人間が造った虚しい偶像を拝むという偶像崇拝を厳しく戒め、偶像を拝む者達は神の御怒りを受けると言っているのです。


今日の一言:救いは信仰による


鶴田健次 



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2017.10.13 18:09 | お知らせ

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宇宙に浮かぶ美しい地球


 真っ暗な宇宙空間に浮かぶ青い地球。人類初の宇宙飛行士ガガーリンは「地球は青かった」と言いました。宇宙飛行士が撮った地球の写真を見れば、地球が青い球体であること、また、その地球が宇宙空間に浮かんでいることが誰にでも分ります。ところが、現代人にとっては当たり前のこの事実が、古代人にとっては考えられもしないことでした。


 古代人が宇宙を意識し始めた初期の頃は、彼らにとっての宇宙は、自分たちが住んでいる地球上のそのまた限られた地域に限られていて、宇宙の果ては海であったり、山であったりというものでした。


 たとえば、古代メソポタミア人は、大地の周りを高い山々が取り囲んでいて、天空はその山の上にのっているという風に考えていました。彼らの考えによると、太陽は天空を横切って、地下のトンネルをくぐった後に、再び東からの昇ってくるのだということでした。また、それ以外にも、古代バビロニアの宇宙観、古代エジプトの宇宙観、古代インドの宇宙観、古代中国の宇宙観など、古代の人々は、それぞれに独自の宇宙観を持っていましたが、そのどれもが今の私たちから見れば非常に幼稚なものでした。


 ところが、神の言葉とされている聖書は、今から3000年も昔に、すでに地球を宇宙空間に浮いている存在として描いています。


「彼(神)は・・・・地を何もない上に掛けられる」(ヨブ記26:7)


 当時は、もちろん人工衛星もないわけで、地球の外から地球を見ることなど不可能な時代でした。しかし、そのような時代に、聖書は既に、地球が宇宙空間に浮かんでいるという事実を明らかにしているのです。すべての人々が幼稚な宇宙観しか持ち得なかった時代に、現代人にしか知り得ないことを聖書が明らかにしているという事実は、まさに驚くべきことです。それは、時間を超越して存在する神が、その存在を示すために、後の時代にならなければ分からないことを、こうして明らかにしておられるのです。


 聖書の中の天地創造に関する記述(創世記1章)は、多くの人々に非科学的であると言われ、嘲笑の的にされてきたものです。人々は、長い間、地球、海洋、大気、大陸などの起源に関して、それが全くの空想的なものであるにもかかわらず、科学者(?)と称される人々の学説を根拠もなく支持してきました。しかし時代が進み、自然科学者たちの目覚しい研究成果によって、彼らの学説は空想的なものから科学的根拠に基づくものに変えられてきました。ところが何と、その彼らの研究成果は、聖書の記述内容を否定する方向よりも、それを裏づける方向に向いているのです。


 そこで聖書を神の言葉と信じる科学者たちは、自然科学の学問が完成に近づけば近づくほど、その学説は聖書の記述内容をさらに証明するものになると信じています。なぜなら、自然科学の学問は、神によって創造された自然界に見られる普遍的な法則性を探求するもので、神が創造された自然と、神が記された創造に関する記述は一致する筈のものなのだからです。


今日の一言: 聖書は最大の科学の書


鶴田健次


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2017.09.30 08:34 | お知らせ

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