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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

牧師室より#388「多くを赦された者は多くを愛する」_convert_20180602015102 


『多くを赦された者は多くを愛する』



今回はルカの福音書7章に出てくる『罪の女の赦し』の物語を通して考えてみたいと思います。この物語はルカの福音書にだけ出てくるイエス様のお話ですが、ルカの福音書の一つの特徴は『愛』です。


もちろん、どの福音書も『愛』を語りますが、ルカは、特に、この世から疎外され、人から相手にもされない人間が、イエス様の愛によって神のもとに招かれている、そういう愛について語っています。


まず、この物語から教えられる第一のことは、イエス・キリストは人の心を受け取られる方であるということです。乞食、犯罪人、売春婦、収税人・・・、聖書には、このような世の中では落ちこぼれと言われる人々が登場します。


彼らは苦しんでいましたが、ユダヤ教の指導者的な立場にあったパリサイ人たちは決して彼らを憐れんだり、彼らに救いの手を差し伸べたりしませんでした。それどころか彼らを『罪人』と呼んでさげすみ、彼らの心の傷に塩をすり込むようなことをしていました。


そんなパリサイ人シモンとイエス様が食卓についておられると、突然、ある札付きの売春婦がイエス様に会うためにやって来ました。怪訝な顔をする人々をよそに、彼女は脇目もふらずイエス様に近づき、泣きながら足下にひざまずきます。そして、その涙でイエス様の足を濡らし、自分の髪の毛でぬぐい、心を込めて足に口づけをし、その上に高価な香油を塗りました。


この女性は、以前にイエス様との出会いがあったのでしょう。イエス様からありのままの自分を受け入れてもらい、また醜い自分の罪を赦してもらい、心から湧き上がる感謝と喜びが力となって、その罪の生活から立ち直ることができたのです。イエス様に愛され、赦され、受け入れられるという経験は、人の人生を変えます。


次に、ここから学ぶ第二のことは、人には誰でも霊的な負債があるということです。ここでイエス様は、短くて、簡単なたとえ話をされます。500デナリと50デナリの借金を帳消しにして貰った人の話です。今で言えば、5万ドルの借金と5千ドルの借金ということです。当然、5千ドルよりも、5万ドルの借金を帳消しにしてもらった人の方が、金貸しに対する感謝の気持ちも大きいでしょう。イエス様から聞かれると、シモンもそのように答えました。しかし彼は、そのことが自分にとってどんな意味を持つのかを知りませんでした。


ここで言われている5百デナリと50デナリの借金が象徴するのは、自分の中にある罪の自覚の大きさです。またここに登場する金貸しは、どんなに多額の借金も帳消しにして下さる神様のことです。つまり、人は誰でも神様に対して罪という負債を負うており、その負債に本当に気付くなら、神様はその負債を帳消しにして下さるということです。


しかし、その負債は、本来すべての人が同額であるのに、人によってその額に対する自覚が違うのです。自分の罪の大きさに気付き、その罪を赦して下さる神様の愛を知ることが出来たのは、パリサイ人のシモンではなく、売春婦でした。


この物語から学ぶ第三のことは、多くを赦された者は多くを愛するという法則です。イエス様にとって、この女は売春婦というよりも、神の救いに感謝する人でした。イエス様がご覧になれば、売春婦だろうが、パリサイ人だろうが、神様の前に罪という負債を持った者であることに変わりありません。


もし、神様がその償いを要求されれば、売春婦も、パリサイ人も、永遠の滅びを免れることはできないのです。しかし、気前のいい金貸しに象徴される神様は、その途方もない愛と憐れみをもって二人の罪を赦して下さるのですが、赦された二人の赦された罪に対する自覚が大きく違っていました。そして、その違いがイエス様に対する二人の態度に現われています。


イエス様を食事に招いたシモンの態度は冷淡でした。一方、この女は、イエス様を愛して止まない行動を取りました。シモンは、この女は罪深く、自分は正しいと思っていましたが、真理は逆で、女の方が正しいことを行ない、シモンは愛に欠けることをしていたのです。この違いは何を表しているのでしょうか。


イエス様はこう言われます。『この女は多くを愛したから、その多くの罪は赦されているのである。少しだけ赦された者は、少しだけしか愛さない』と。 あなたは、どれだけイエス様を愛しておられますか?


今日の一言:多くを赦された者は多くを愛する



鶴田健次



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2018.06.02 01:51 | お知らせ

牧師室より#387「自分を幸せにできるのは自分だけ」_convert_20180526014542 

『自分を幸せにできるのは自分だけ』



あなたは幸せですか・・・?


自分の生涯を閉じる日が来たとき、「ああ、私の人生は本当に幸いな人生だった。そして、これからは更に素晴らしい、新たな永遠の人生が私を待っている」ということを本気で言うことができるなら、その人は本物の幸せをつかんでいる人だと言えます。また本当の自分を生きている人だと言えます。


人は誰でも、生きる上での心の拠り所や、その人なりの人生の目的を持っています。しかし、もし人が普遍的な心の拠り所を持たず、普遍的な人生の目的を持っていないなら、その人は本当の幸いを得ているとは言えないのではないでしょうか。


普遍的な心の拠り所も、普遍的な人生の目的も、神を知ることなしには絶対に得られないものです。神を知り、神と共に生きている人は、神の愛という座標軸をもとに自分の人生を見ようとします。またいつも永遠という視点に立って物事を見ます。


ですから、そういう人は、自分の不幸を他人や状況のせいになどせず、どういう状況でも、その中に大切な意味を見出していくことができるのです。


あなたは、自分を幸せに出来るのは世界中で自分しかいないことをご存知ですか? 同様に自分を不幸に出来るのも世界中で自分しかいないのです。この事実を知らないで生きている人がたくさんおられますが、その状態は、まさに自由を失った『かごの中の鳥』のようなものです。本当は羽ばたく力があるのに、かごを理由にして羽ばたこうとしないのです。もっと自由に歌えるのにその歌を忘れてしまっているのです。


あなたはいかがですか・・・?


アニー・チャップマンという婦人伝道者のこんな話があります。ある日、彼女は、五百人が参加した婦人集会で講演をしたそうです。集会が終わって、会場を出ようとしたら、一人の婦人が誰もいなくなった会場の後の方に座っていました。


アニーは彼女のそばに近づき、話しかけました。その婦人は、三人の子供を持つ母親で、17歳の長男は、筋ジストロフィーのために車椅子の生活をしていて、他の二人の子供も、情緒的な問題を抱えているということでした。その婦人はアニーにこう言いました。


「私の生活を悲惨にしているのは、実は夫です。息子の養育に関しては、何の手助けもしてくれません。トイレに行く間、息子を抱いていてと頼んでも、それさえしてくれないのです。私の父が今週亡くなりました 父は、私には何の財産も分けてくれませんでした。私の夫を憎んでいたからです。」


そしてさらに彼女は、驚くべき発言をしました。「私は今日の集会に、一つの祈りを持って来ました。それは、夫を殺して欲しいという祈りでした。『神様、私はカゴの中の鳥です。どうか、私のために出口を用意してください』と祈りました。すると、今まで感じたことがない程はっきりと、『カゴの中の鳥でさえ歌いますよ』という神様の声が聞こえました。先生、私はこの答えをどう受け止めればいいのですか?」そう彼女は尋ねました。


アニー・チャップマンは、こう答えました。「神様が『歌いなさい』と仰るなら、あなたは自分の歌を見つける必要があります。」


 「神様が『歌いなさい』と仰るなら、あなたは自分の歌を見つける必要がある。」


いかがでしょう・・・? 困難からの脱出は、そのほとんどが、環境を変えればよいというようなものではありません。たとえ環境を変えても、その人が変わらなければ、その人の問題はどこにでも付いて来て、また必ずそこで芽を出してしまいます。


本当の問題解決は、神様が、なぜその困難を自分の前に置いておられるかという問いに対する答えを見つけ、それと取り組むことによって得られるものです。


ですから、人には、「ああ、私には、この事が見えていなかった」という、神の視点から見た気づきが必要です。素晴らしい人生の扉は、『私には、この事が見えていなかった』という気づきによって開かれていくものです。



今日の一言: 私は自分の歌を見つける必要がある



鶴田健次


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2018.06.01 22:35 | お知らせ

牧師室より#386「苦難は神の摂理の中に」_convert_20180519040526 


『苦難は神の摂理の中に』



人間の歴史は、まさに苦難の歴史です。人は生きているかぎり誰でも苦難に遭います。経済的な苦難、精神的な苦難、人間関係の苦難、また病気の苦難など、様々な苦難があります。


今回は旧約聖書のヨブ記を開きたいと思いますが、ヨブという人は、かつてイエス様が「ヨブの試練」と表現されたように、試練の代表とも言える、大きな、しかも理由の分からない苦難を経験した人です。


ヨブは、東の国で一番裕福な人で、また神が悪魔に自慢する程の信仰深い人でした。ところが、そのヨブが試練に遭い、全財産と多くのしもべたち、またそれに加えて10人の子供たち全員を失います。その上、彼は健康を損ない、足の裏から頭の上まで悪性の腫れ物で覆われてしまうのです。


ヨブ記の1章、2章を見ると、この試練は悪魔からのもので、神の許しのもとで起こったことが説明されていますが、私たちは、その試練の背後に、測り知れない神の愛と摂理が働いていることを認め、謙虚な心でこのことを受け止めなければなりません。


ヨブ記は、人はなぜ苦しみに会うのかを説明しているのではなく、人生の苦難の意味を探りながら、苦難に会ったとき、私たちはどういう態度を取るべきかを教えています。そこで今回は苦難の中に見出される神の祝福について考えてみます。


まず第一に、苦難は、私たちを成長へと導きます。なぜなら、苦難は私たちに自分を反省する機会を与えてくれるからです。人は苦しみに会ってこそ、自分の間違いに気づくものです。すべてが上手くいっている時は、間違いがあっても、それを認めようとしません。


しかし、自分の行く道が険しくなり、逆境が襲ってきたら、何が間違っていたのかと自分を反省し、そういう心で見なければ見えてこない自分の問題に気づくのです。


ヨブ記は、ヨブが神の前で自分の無知を知らされ、神の全能性、絶対性を認めるところで終わります。彼の受けた苦難は、信仰深く謙遜であったヨブに、さらに深い信仰と謙遜を増し加え、ヨブを更なる成熟へと導きました。


第二に、苦難は、私たちと神との関係を新しくします。ヨブは苦難を通して神との新しい関係を持つことができました。もともと神との良い関係を持っていたヨブですが、苦難を通して、さらに新しい関係を築き上げ、以前にも増して大きな祝福を与えられるのです。


人は、苦しみの中から神を呼び求めるようになります。明るい昼間に、光りを捜し求める人はいませんが、真っ暗な夜になれば、人は明かりが欲しくなります。苦しみの暗闇が近づいてこそ、人は希望の光りを捜し求めるのです。


詩篇 50篇15節に、「悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」と記されています。


苦難は、人を新しい人に変える熔鉱炉のようなものです。熔鉱炉の中で、不純物を取り除き、純粋な金銀を得ることができるように、神は、苦難の火を通して、私たちから不純物を取り除かれるのです。苦しみによって私たちの心が砕かれ、溶かされるとき、私たちの不純物が取り除かれ、クリスチャンとしてふさわしい品性が養われるのです。


第三に、苦難は神の器を作ります。ヨブを見ても分かるように、苦難は素晴らしい信仰者、素晴らしい神の器を作るために必要なプロセスです。ですから、苦難に出会ったときは、もっと先にある神の摂理的な計画に目を向けなければなりません。


神は、私たちを祝福して下さるために、先ず器を準備させようとなさるのです。その器は、私たち自身です。ですから、神はイスラエルの民を乳と蜜の流れるカナンの地に導かれるとき、荒野を通らせられたのです。それは、苦しみを通して、彼らを神の器として準備させるためでした。


申命記 8:16には、「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」と記されています。 





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2018.05.19 04:07 | お知らせ

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