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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

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すべてのことについて感謝しなさい

 

 使徒パウロは、第一テサロニケ5章18節で、「すべてのことについて感謝しなさい」と勧めました。この聖句は16節、17節の聖句とともに、聖書の中でも最も有名な聖句のひとつです。

 

 「すべてのことについて感謝しなさい」 これはすべてのこと、どんな状況でもということです。つまり嬉しい時でも、悲しい時でも、失敗した時でも、さらには苦しみに直面している時でも、すべてのことについて感謝しなさいという意味です。いったいどうすればこのような時にも感謝できるのでしょうか。

                                                

 ここで鍵になるのは、同じ18節にある、「キリスト・イエスにあって」という言葉です。自分の力ではとても感謝などできなくても、キリスト・イエスにあるならば感謝できるのだということです。災害に見舞われても、病気になっても、思うように事が進まなくても、この世を治めておられる神様の視点で物事を見るなら、どんな状況でも感謝することができるのです。

 

 ジョン・クゥアンの「一生感謝365日」という本の中に、すべての感謝の基本ということで、次のように書いてあります。

 

「幸せは持っているものに比例するのではなく、感謝に比例する。自分の人生のすべてのことを感謝だと感じられれば、それに比例して幸せも大きくなる。ではどのように感謝することができるだろうか。 (中略)

イエス・キリストを送ってくださったことにより、死から永遠のいのちに移されたことよりも尊く、価値のある贈り物が他にあるだろうか。だからこそ私たちは、イエスの十字架を見上げて感謝しなければならない。これがすべての感謝の基本であり、始まりである。」

 

 これがキリスト・イエスにあってということです。私たちはイエス・キリストにあってこのような素晴らしい救いを受けているのです。ですから、たとえこの地上で悲しいことや苦しいことがあっても、そうした目の前の出来事に押し潰されず、その先にある栄光の望みを見て喜び、感謝することができるのです。

 

 この手紙を書いたパウロは獄中にあっても喜んで毎日を生きていました。彼の人生は苦難の連続でした。宣教の働きにおいては、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついには死さえも覚悟したと彼は言いました。そればかりか、彼は肉体に一つのとげを与えられ、それを去らせてくださいと三度も主に願ったにもかかわらず、取り去られることはありませんでした。

 

 辛く苦しい人生を呪えと言われて呪う権利がある人がいるとしたら、このパウロとヨブが一番に挙げられると思います。それほどの苦しみを味わったのです。そのパウロが、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」と言うことができたのは、彼がこの素晴らしい宝を見出していたからです。

 

 ピリピ書4:11-13で、パウロはこのように書いています。

 

 「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」

 

 これがパウロの喜び、パウロの感謝の秘訣だったのです。私たちは、私たちを強くしてくださる方によってどんなことでもできるのです。私たちに永遠の命を与えて下さった神の恵みがあれば、すべてのことについて感謝することができるのです。

 

聖歌の「やすけさは川のごとく」を書いたホレイショ・スパフォードは、絶望的な状況でも、神の前で喜び、賛美し、感謝した人です。弁護士であり、法医学の教授であった彼は、ムーディーが赴任していたシカゴの教会の執事でした。しかし、シカゴ大火災で全財産を失い、火災の直前に息子を失いました。大きな試練に遭ったスパフォードとその家族には、休養が必要でした。1873年、彼は妻と4人の娘と共に、ヨーロッパ旅行を計画しました。しかし、スパフォードは、D・L・ムーディーの伝道旅行を手伝うために、妻と4人の娘を先に船に乗せました

 

ところが、妻と四人の娘たちを乗せた船が衝突事故を起こし、娘たち全員が亡くなってしまいました。生き残った妻に会い行くために舟に乗りました。船長と話していると、船長が、「もう少ししたら、娘さんたちが眠っているところを通りますよ」と言いました。その言葉を聞いたスパフォードは、それまで冷静さを保とうと頑張っていた心に、大きな嵐が吹き始めました。寝室に戻り、悲痛な叫びの祈りを神にささげました。

 

 長い祈りの中で、絶望し、泣き疲れているスパフォードに神の臨在が波のように押し寄せました。その瞬間、今まで体験したことのない平安が彼の心に満ち溢れました。全ての苦難と絶望と悲しみは神の臨在の波にのみ込まれ、人知では計り知れない心の平和がやってきました。そして、彼の心に、神を賛美する歌詞が湧き上がってきました。

 

やすけさは川のごとく 心ひたすとき
悲しみは波のごとく わが胸満たすとき

 

すべてやすし み神共にませば

 

When peace, like a river, attendeth my way,
When sorrows like sea billows roll;
Whatever my lot, Thou has taught me to say,
It is well, it is well, with my soul.

 

It is well, with my soul,
It is well, with my soul,
It is well, it is well, with my soul.

 

世界を信仰の目で見上げることができるなら、そこに変化が起こります。神様の力がどれほど大きいか、神様が自分をどれほど愛してくださっているかを知るなら、私たちは神様に感謝をせずにはいられません。信仰の目が感謝を生み出すからです。

 

 

今日の一言: すべてのことについて感謝しなさい

 

 

鶴田健次

 

 

鶴田健次


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2019.12.14 02:29 | 鶴田健次牧師より

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 今日は、ゴミ捨て場の思考ということについて考えてみました。

 

 ある哲学者が、「あなたが現在の状態にあるのは、あなたが意識的にせよ、無意識にせよ、それを望んだからだ」と言いました。この考えには、もちろん例外はあるとして、基本的に私は賛成です。

 

 以前、私がまだビジネスマンのころ、ロサンゼルスから車で二時間ほどの郊外にある会社を訪ねたことがありました。その会社は分かりづらい所にあって、最初は100人中98人までが迷うそうで、途中で分からなくなったら電話を下さいということでした。しかし、私は方向感覚には比較的自信があったので、100人中の2人になろうと思って行きました。

 

 ところが、途中で道路工事が行われていたので、私は止む無く別の道を通ることになり、そのために(?)完全に道に迷ってしまいました。約束の時間もあったので、私は近くにあったガソリンスタンドに駆け込み、適切な道を尋ねることにしました。

 

 スタンドの店員は、快く教えてくれ、親切に地図まで書いてくれました。そして、その地図どおりに行けば、余裕をもって目的地に着くことができると保証してくれたのです。私はアメリカにも親切な人がいるもんだと気を良くし、地図どおりに車を走らせました。ところが、走っても走っても、地図にある目印のところに行き着きません。約束の時間が過ぎ、その会社に電話をすると、私は全く反対に向かって走っていたのです。もちろん、私は自分の意図でわざわざそこまで来たわけではありません。間違った方向を教えられたためにそうなったのです。

 

 同じ事が、私たちの人生にも言えないでしょうか。一文無しであるとか、絶望状態にあるとか、憂鬱であるとか、家庭や仕事が上手くいっていないという、私たちの望まない現実があるとすれば、私たちは間違った方向に進むように教えられ、そのゴミ捨て場の思考を持ち続けてきたのかも知れません。

 

 では、このゴミ捨て場の思考とは、一体どういうものでしょう。

 ある大都市の郊外で、もともとゴミ捨て場であった所に新しく立派なショッピングセンターが建てられることになりました。そこは長い間、誰もゴミ捨て場以外には考えてもみなかったところです。ところが、ある時、想像力豊かな市民が、そこを綺麗なショッピングセンターにしようと決めたのです。そこで、彼らはゴミを捨てるのをやめ、綺麗な盛り土を運んできて、長い間に蓄積されたゴミを覆うことにしました。相当な量の盛り土が何ヶ月もかけて運ばれ、完全にゴミを覆い尽くし、やがてその土台の上に立派なショッピングセンターが出来上がったのです。

 

 この話は、誰かが過去に私たちの思考にゴミを投じてきたかも知れないことを考えさせてくれます。しかし、これまでにどんなゴミが投げ込まれていても問題ではありません。そのようなゴミはすべて克服することができます。そう決断するなら、私たちにとって、今日がこれから始まる人生の初日なのです。

 

栄養失調の人が、バランスのとれた食事をたっぷり食べても、一食だけでは完全な栄養状態を取り戻すことはできません。積み重ねが大事です。私たちがしなければならないことは、過去に蓄積された間違った物の考え方や生活習慣というゴミを真理に基づく正しい生活習慣という綺麗な盛り土で覆うことです。そのために最も効果的なことは聖書を読むことです。なぜなら聖書は私たちの心を健全に育てる唯一の魂と霊の糧だからです。

 

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」(2テモテ3:1617

 

日々、聖書を読み続ければ、その素晴らしい教えによって、深く深く、そのゴミをより奥へ埋めることができます。そして、聖書に基づく健全な物の考え方と生活習慣が、やがて私たちの人生に素晴らしい実を結ばせてくれることになるのです。

 

 

今日の一言: 今日がこれから始まる人生の初日

 

 

鶴田健次

 

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2019.12.07 03:05 | 鶴田健次牧師より
464:感謝をすることは神の命令_convert_20191130042336

感謝をすることは神の命令



 皆さん、今日は感謝祭にちなんで感謝ということを考えてみました。 


 ところで皆さんは、感謝をすることは神の命令であることをご存知でしたか? 旧約聖書の詩篇は、至るところで「主に感謝せよ」と述べています。また、新約聖書でも繰り返し「すべての事に感謝しなさい」と勧められています。


 たとえばエペソ5:20には、「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい」とあります。


 またコロサイ3:17には、「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい」とあります。


 さらにⅠテサロニケ5:18には、「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と言われています。


 しかし、なぜ聖書は「すべてのことについて感謝しなさい」と命じているのでしょうか。私たちはこの言葉を見ると「すべての事に感謝などできません」と言いたくなります。


 普通は、良い事があれば感謝し、悪い事があれば腹を立てたり、悲しんだりします。しかし「すべての事について」とは、良い事はもちろんですが、悪い事もということです。そうなると普通では難しいことです。


 ところが、この言葉をよく見ると、ただ「感謝しなさい」ではなく、「主イエス・キリストの名によって神に感謝しなさい」と言われています。つまり、感謝とは神への祈りであり、すべての事を支配しておられる神の絶対主権を認めるということなのです。


 たとえば、目の前で悪い事が起きた時でさえ、「今こういう事が起きました。でもイエス・キリストの名によって、この事を神に感謝します」ということなのです。


 そんなバカな!?


 車の事故を起したら、多くの場合、「ああ、何で事故なんて起したんだろう。もっと気をつけて運転をしておけばよかった」と後悔します。それから今度は、相手を悪者にしようとします。次に、どうやって壊れた車を直そうか、お金はどうしよう、と後始末のことを考えます。つまり、私たちの心は、怒り、心配、不安な思いを抱きこそすれ、感謝な気持ちになどなれません。


 あなたは病気や怪我をしたとき、それを感謝できますか?「果たして、治るだろうか? 治療費はいくらかかるだろうか?という思いに支配されるのが普通かも知れません。治った後なら感謝もできるでしょうが、問題の只中で感謝をすることなどできません。むしろ、つぶやき、不平不満、怒りが出てくるでしょう。普通の人ならそれが普通だと思います。


 しかし聖書は「すべての事に感謝しなさい」と命じています。また「いつも喜んでいなさい」と命じています。そんな不可能なことをと思うかも知れませんが、ここで私たちが知らなければならないことは、感謝や喜びというのは、感情ではなく、意思的な選択だということです。つまり意思的な選択であれば、問題の只中にあっても、その状況を感謝することも可能だということです。


 では、なぜ聖書は、私たちの自然な感情の反応に反して、そういうものに感謝することを命じているのでしょうか。マーリン・キャロザーズは『讃美の力』という本の中でこう教えています。


 「困難な問題や病気や災難のゆえに神を讃美するということは、文字通り、その病気や災難が起こったことを私たちの人生における神のご計画の一部として受け入れて、賛成することを意味します。それは、今起こっているその事に対して神が責任を取っておられるという事実を受け入れることになるのです。そうでないなら、その事で神に感謝するということは意味を成さないでしょう。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」


 つまり、こういうことです。どんな状況の中でも、これが神の計画の一部であり、神が益になるように働いて下さることを信じて、その事に感謝するのです。そうすると、神は「では、そうしましょう」と言って益となるように働かれるのです。


 逆に、もしあなたが嘆いたり、不平不満を漏らすなら、神が益となるように働かれることを邪魔することになるのです。

 それからもう一つ、感謝をすることで、私たちは自分自身の幸福感を増すことができます。私たちは、幸せというものはどれだけ物事が上手くいっているかによると教えられてきました。しかし実際には、私たちの幸せは、私たちの態度で決まるのです。それは、私たちが物事をどう捉えるかによるということです。もし私たちが状況に関係なく感謝を表わす人になることを学ぶなら、それは私たちの幸せを大いに改善することになるでしょう。


今日の一言: すべての事に感謝しよう



鶴田健次

2019.11.30 04:20 | 鶴田健次牧師より

                 牧師室より463:美しき人々  



 今日は、「美しき人々」について考えてみました。


 本物の「美しき人々」とは、人生においてさまざまな苦しみを味わった人々でありながら、俗に言う「敗者の仮病」を演じることを拒み、自分にできる精一杯の努力をしながら成功をおさめ、幸せを手に入れることができた人々であると言えるでしょうか。   


 周りを見渡すと、あらゆる人種、あらゆる宗教、あらゆる皮膚の色の人々の中に、このような人が存在します。教育程度もさまざまで、中には信じられないほどのハンディキャップがあったにもかかわらず、彼らの多くは、それを踏み台にして成功したのです。


 20世紀の初め、ニュー・イングランドの精神病院に、リトル・アーニーと呼ばれていた女の子がいました。彼女は、何にも反応を示さない緊張型分裂症患者でベッドにうずくまり、一言も話さず、胎児のように丸まったまま動こうとはしませんでした。職員はあらゆることをして彼女を助けようとしましたが、ついに回復の見込み無しとされ、施設の地下にある独房に監禁されてしまいます。

 毎日、掃除婦がアーニーの独房の周辺を掃除するためにやってきました。その掃除婦は、神に創られたすべての者は愛と気配りと優しさが必要であると信じるクリスチャンでした。彼女は昼の時間をアーニーの部屋の前で過ごすことに決め、彼女のために聖書を読み、神が彼女を救ってくれるように祈りました。しかし、アーニーは何の反応も示しませんでした。彼女はまた、愛情のしるしとして、いつも何か食べる物を持って行き、その独房の扉の前に置くのですが、アーニーは決してそれを受け取ることはありませんでした。

 そんな事が長いあいだ続いたある日のことです。彼女が回収したお皿の中から一つのチョコレートケーキがなくなっていました。そして、その日からだんだんアーニーは自分の殻から抜け出し始め、その掃除婦と少しずつ話をするようにまでなったのです。こうして、アーニーは見放された地下室から連れて出され、もう一度治療を受けることができるようになりました。

 それから二年後、アーニーはまったく普通の生活が送れるまでに回復をしました。しかし、彼女はその精神病院を離れずに、そこにずっと残り続ける決心をします。その施設にとどまり、自分が受けた愛をもって、自分と同じ苦しみの中にいる人々を愛していくことにしたのです。

 それから時を経て、その精神病院の院長は、目も見えず、耳も聞こえず、口もきけないという、まったく見放された子供の世話してくれる人を紹介して欲しいという依頼を受けました。院長はこの施設で奇跡的に回復したアーニーを紹介することにしました。このアーニーこそ、ヘレン・ケラーを救ったあのアン・サリバンでした。


 このような話はどんな話よりも美しく感動的です。こういう人たちは例外なく、「人は目標を達成できるように設計され、成功するように創造されていて、そのための偉大な可能性を備えている」ということを信じている人々です。つまり神は人をそのように造っておられるということです。この事実を信じることができれば、どんな問題があっても、それを他人や状況のせいにするという考えは起きないのです。言い換えれば、自分自身の中に自分を手伝ってくれる最高の助け人を見出すのです。


 その助け人であるあなた自身は、あなたを造られた神を認め、その神の愛を知り、その愛の中に生きるときに最も自分らしい最高の人生を生きることができます。そして、神に愛されている自分を愛し、神に目的をもって造られた自分の中に大きな可能性を見出し、すべての事に感謝して生きるなら、あなたの未来は輝かしいものになることでしょう。



今日の一言: 神のかたちに似せて造られた自分を見出そう



鶴田健次



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2019.11.23 03:05 | 鶴田健次牧師より

462:息子を失った父親の息子に託した思い_convert_20191116035052


 今日は、息子を失った父親の息子に託した思いについて考えてみました。

 皆さんも一緒に考えてみてください。

 

 ある裕福な男性と彼の一人息子は、珍しい絵画の収集が趣味でした。ピカソからラファエルまで、彼らのコレクションは実に目を見張るものがありました。そして、二人はいつも一緒に座って、価値ある作品を眺めながら、その一つひとつの素晴らしさを語り合いました。


11:15 1             11:15 2


 ベトナム戦争が始まり、息子は出征していきました。そして勇敢にも一人の兵士仲間を救い出そうとして犠牲になり、戦死してしまうのです。やがて父親にその知らせが届き、父親は一人息子の死を深く悲しみました。


 一ヶ月が過ぎた頃、ちょうどクリスマスの前の日に、玄関のドアをたたく音がありました。ドアを開けると、一人の青年が大きな包みを持って立っていました。その青年は言いました。「あなたは私のことをご存知ありませんが、私はあなたの息子さんが命を捧げて下さった兵士です。彼はあの日、多くの兵士の命を救いました。そして最後に、負傷した私を安全な場所に運んでくれているときに心臓に弾丸を受け、即死しました。彼はいつもあなたのことを話してくれました。あなたがどんなに芸術を愛しておられるかということを。


 青年は持っていた包みを差し出しました。「これは大したものではありません。私は偉大な画家ではありませんが、あなたの息子さんは、あなたがこれを持つことを望んでいると思います。」


 父親は包みを開けました。それはその青年が描いた息子の肖像画でした。彼は、その兵士が息子の個性を見事に捉えて描いた絵を畏敬の念をもってじっと見つめました。父親の目からは、涙が止め処なく溢れ出てきました。彼はその青年に感謝をすると、こう言いました。「いくらでも払うので、この絵を譲ってもらえませんか?」


 青年は答えました。 「そんな、とんでもありません。私は、あなたの息子さんが私にしてくれたことに何もお返しできません。これは私の心からの贈り物です。」


 父親は、その肖像画を暖炉の上に掛けました。そして、訪問客が彼の家を訪ねる度に、まずこの息子の肖像画を見せて、それから彼のコレクションを見せるようになりました。


 数ヶ月が経って、その男性は亡くなりました。そこで彼の遺言にしたがい、彼のすべての絵画が競売に掛けられることになりました。有力者たちが至る所から彼の家に集まり、数々の名画を見て、彼らのコレクションの一つに加える機会が訪れたことに興奮気味でした。いよいよ競売が始まり、まず最初に息子の肖像画が壇上に掲げられました。


 競売人は、小槌を打ち付けました。「では、まず、この息子の肖像画から始めます。誰が、この絵に値段をつけられますか?」


 会場は静まり返り、しばらくして、後ろのほうから大声で、「我々は、有名な名画を見たいんだ。この絵は飛ばしてくれ!」  しかし、競売人はその声を無視し、「この絵に値段をつける人は誰かいませんか? 誰が始めに値段をつけますか? 100ドル? 200ドル? 誰かいませんか?」


 すると今度は、少し怒ったように叫ぶ声がありました。「我々はゴッホやレンブラントを見に来たんだ。本当の競売を始めてくれ!」 しかし競売人は執拗に続けました。「息子! 息子! 誰がこの息子を持って行きますか?」


 すると会場の一番後ろから声がかかりました。それは長年その家で働いてきた庭師でした。「私がその絵に10ドルを払いましょう。」 貧しい男にとって、それが払える限度でした。そこで競売人は続けました。「10ドルの声が掛かりました。20ドルはいませんか?」


 すると、また会場から声がしました。「早くその絵を10ドルで彼にやって、我々は名画を見よう!」


 「入札金額は10ドルです。誰も20ドルはいませんか?」


 会場のあちこちから怒りの声が上がり始めました。彼らは息子の肖像画など欲しくありませんでした。彼らは自分たちのコレクションのためにもっと値打ちのある投資を望んでいました。


 そこで競売人は小槌を打ちつけました。「では、この息子は10ドルで落札です!」

 すると二列目に座っていた男性が叫びました。「さあ、名画のコレクションに移るとしよう!」


 ところが、競売人は小槌を置いて言いました。「残念ですが、これで競売を終わります。」


 「何だって、本命の名画はどうするんだ!」


 「まことに残念です。私がこの競売を執り行なう依頼を受けたとき、遺言に特別な条件が明記されていることを聞かされました。そして、その特別な条件は、この最後の時まで明かしてはならないことになっていました。その特別な条件とは、この息子の肖像画だけを競売に掛けること、そして誰であっても、この息子の肖像画を買った者が絵画を含むすべての地所を相続するというものでした。ですから、この息子を手に入れた者がすべてを得るのです。


 神は約2000年前に、十字架の上で死ぬために、そのひとり子を与えられました。まさに、この競売人のように、「息子、息子、誰がこの息子を持って行きますか?」というのが、今日、神があなたに語り掛けられているメッセージです。なぜなら、既にお解かりのように、その子を受け取る者はすべてを得るからです。


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)



今日の一言: 神の子を受け取る者はすべてを得る



鶴田健次


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2019.11.16 04:11 | 鶴田健次牧師より

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