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ラスベガス日本人教会  砂漠の地ラスベガスから乾いた心に命の水を

 

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あなたは死んだらどこに行く? 

 

 

 人間は、だれでも必ず死ぬ時が来ることを知っていますが、「人は死んだらどうなるのか?」という問いに対して、殆どの人は漠然としていて、「分からない」と答えます。また、「死んだら無になる」と言う人もいますが、その根拠は何もなく、ただの推測に過ぎません。

 

人間は、自分が望んでいることを信じたがるものです。しかし、この「死と死後の問題」は、軽々しく取り扱うべきものではなく非常に厳粛で重要な事柄です。なぜなら死後には永遠の世界があり、あなたも必ずそこに行くからです。

 さて、死後の世界は無ではなく、二つの世界があると聖書は告げています。その二つの世界とは「天国」と「地獄」です。ここでは詳しい話をすることはしませんが、聖書の多くの個所で、死後には間違いなく二つの世界があることが語られています。たとえば、イエス・キリストはマタイ71314で次のように語られました。

「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」


 ここで、「滅び」というのは永遠の地獄のことで、「いのち」は永遠の天国を指しています。そして、殆どの人が永遠の滅びに至る広い道を歩んでいるとイエス様は警告しておられるのです。


 では、天国への道と地獄への道の分かれ道は、どこにあるのでしょうか。日本人の多くが考えているように、殺人犯や極悪非道な犯罪者が行くところが地獄で、いわゆる善人や多くの善行を行なった人が天国に行くのでしょうか。いいえ。そうではありません。


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 ヨハネ336には、こう書かれています。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

 

つまり、死後の二つの世界を分けるものは、神が人間を救うために遣わされた御子イエス・キリストを信じるか否かにかかっているのです。神の存在を認めるだけでは、天国に入ることはできません。聖書の教えを知識として知っていても、それで天国に行けるわけではありません。イエス・キリストを救い主また主として信じ受け入れる信仰が分岐点なのです。ローマ書10910には、次のように記されています。

 

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

 

昔も今も、神の存在や地獄について語ると、多くの人はあざ笑います。それは聖書でもあらかじめ言われていたことです。しかし、死後の世界は間違いなく本当にあるのです。そして、そのどちらに行くかは、あなたが生きている間に自分で決めることなのです。

 

すべての人間は、生まれながらに罪(原罪)を持っています。そしてその罪には永遠の裁きが伴います。その裁きは永遠の滅び(地獄)です。つまり、すべての人間は生まれながらに永遠の滅びが定められているというのが聖書が明らかにしている人間観です。

 

しかし、憐れみに富む神は、あなたをその永遠の裁きから救い出すために、御子イエス・キリストをあなたの身代わりとして十字架に架け、あなたの罪を裁かれたのです。ですから、あなたがイエス・キリストを救い主として信じて受け入れるなら、キリストの十字架の御業によって、あなたの罪は赦され、天国における永遠の命を得ることができるのです。

 

しかし、もしあなたがイエス・キリストを拒否するなら、あなたは初めから定められていた永遠の滅びを自分で選び取ることになるのです。そして、このどちらを選ぶかという大切な選びは、あなたが生きている間にだけできることなのです。

 

 

今日の一言: あなたは死んだらどこに行きますか?

 

 

鶴田健次


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2023.03.04 02:46 | 牧師室より

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人生で最も後悔していること

 

 

あなたにとって、「人生で最も後悔していること」は何ですか?

 

アメリカでのとても興味深いデータがあります。

それは80歳以上の老人を対象としたアンケート調査で、

その質問は、「人生で最も後悔していること」は何ですか?というものでした。

 

皆さんはどんな回答が多かったと思われますか?

面白いことに、70%の人が全く同じ回答をしていました。

それは、「チャレンジをしなかった」というものでした。

70%の人が、「チャレンジをしなかった」ことを後悔しているのです。

 

人が人生を終える時に後悔することとして多いのは以下のことだそうです。

 

・他人がどう思うか気にしなければ良かった

・幸せをもっとかみ締めて生きるべきだった
・もっと他人のために尽くせばよかった
・くよくよと悩まなければよかった
・家族ともっと時間を過ごせばよかった
・もっと人に優しい言葉をかけていればよかった
・あんなに不安を抱えながら生きるべきではなかった
・もっと時間があれば・・・
・もっと思い切って冒険すればよかった
・もっと自分を大切にすればよかった
・もっと旅をすればよかった
・もっと一瞬一秒を大事に過ごせばよかった
・子どもたちに好きな事をさせてやればよかった
・言い争いなどしなければよかった
・もっと自分の情熱に従うべきだった
・もっと自分のために頑張ればよかった
・もっと自分の本音を言うべきだった

いかがでしょう。あなたにも思い当たるものがありますか?
どれもが非常に重要なもののように思います。

なぜなら、世の中のほとんどの人がこれを『人生の終わり』になって気づくからです。

 

私たちは人の目を気にしてしまいます。しかしそれに重きを置けば置くほど、他人の意見によって人生が決められてしまいます。他人の目など気にしなくていいのです。大事なのは、「あなたがどうしたいか」です。

 

あなたにとっての幸せとは何ですか?

 

命があるだけで幸せ
食べるものがあって幸せ
着るものがあって幸せ
住む場所があって幸せ
家族がいるだけで幸せ
目が見えるだけで幸せ

 

少し見方を変えるだけで、すでにあなたはたくさんの幸せを得ていることに気づくはずです。

 

それから、自分にとって身近な人、家族を大切にできない人は他の人を大切にはできません。とても不思議なことですが、家族を大切にしその時間も大事にすると、すべての事が上手くいくようになるものです。

 

あなたが過去にかけられた嬉しい言葉は、他人も同じように嬉しいと思う言葉である可能性が高いです。そして、その反対もまた真理です。ですから、人の徳を高める言葉を口にしましょう。

 

もっと時間があれば・・・、これは私もよく思うことです。しかし、時間はすべての人に一日24時間、平等に与えられています。ですから、考えてみれば時間のない人などいないのです。ただ時間の管理を上手にしているかどうかです。私もこれを心に刻みたいと思います。

 

人はやった事ではなく、やらなかった事に対して後悔します。あなたにとって、長い間「これをやってみたい」と思いながらやっていない事はありませんか。今からでも遅くありません。チャレンジをしてみてはいかがでしょう?

 

最後に、私が確信をもって言えることは、人生の最期を迎えた時に人が後悔すべき最大のことは神を見出さなかったことです。言い方を替えれば、神を見出すことほど価値のあるものは人生にはないということです。

 

中世の偉大な神学者アウグスチヌスは、「私たちは神に造られた者であるゆえに、私たちの魂が造り主なる神のもとに帰るまでは、真の平安を与えられることはない」と言いました。

 

私たちは神を見出すことによって人生の真の意味を見出します。また神が共におられる事実の上に真の平安が与えられます。そして、自分の欲望を満足させる自己実現ではなく、神実現の中における自己実現こそが真の自己実現であるという素晴らしい真理を知るに至るのです。

 

 

今日の一言:神実現における自己実現を目指そう

 

 

鶴田健次

 

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2023.02.08 09:35 | 牧師室より

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生命の起源

 

 

生命の起源・・・・、生命は一体どのようにして誕生したのか。その起源はどこにあるのか。そもそも何もないところから偶然に生命が生まれるのか。いつの時代にも、このような問いを人々は投げかけてきました。

 

そういう問いから始まった生物の起源に関する研究は,単に生物の構成物質(アミノ酸、核酸塩基など)の由来を検証する研究から、さらに物質がどのように秩序だった細胞を作り出すように複雑化したのかを調べる研究まで、大きな進歩を見せています。 近年では多くの生物のゲノムの情報が比較できるようになり、それを利用して最初の生物の姿を類推する研究もあります。

 

しかしながら、飛躍的に発展した今日の生命科学でさえ、たとえまことしやかな科学的見解が述べられていても、それらはすべて様々な仮定の上に積み重ねられた見解であり、実際のところ、生物の起源の研究は未だ霧の中を彷徨っている状態です。

 

さて、生命の起源に関してはいろいろな説がありますが、その中で主なものは以下の三つです。

 

神が創られた。

38億年ほど前、突然、海の中で生命が誕生した。

最初の生命は宇宙からやって来た。

 

19世紀に至るまで多くの人々は、自然発生説を受け入れていました。彼らは、雨が降ってできた水たまりには、すぐに何億もの微生物が現われるということを引き合いに出し、それらの微生物は自然に発生したものだというわけです。また、腐敗した死体には、すぐにウジ虫がわいてくることも引き合いに出し、生命は無生物の中から自然発生するものだと主張します。これらの論理は、進化論を正当化するためにも用いられました。

 

しかし1864年に、フランスの細菌学者ルイ・パスツールは、この考えが間違いであることを実験的に証明しました。つまり、完全に殺菌し、かつ外部から菌が入らない状態にしたところからは生物の発生は決してないことを示したのです。これは今日においても事実です。実際、医者はこの実験結果を信頼して、手術の際などに医療器具を殺菌します。生命のない物質から生命が自然発生することは絶対にないからです。

 

ところが、生命の自然発生説が崩れたとき、進化論者たちは別のタイプの自然発生説を唱えました。彼らは、非常に長い時間に望みをつないだのです。つまり、たとえ数年や数十年の間に生命が自然発生することはなくても、何億年、何十億年の時間があれば生命が自然発生することもあるだろうという、いわば信仰に似た新たな自然発生説を唱えたのです。

 

しかしその後、分子生物学の研究が進み、細胞や、細胞の構成物質のことがよく解かるようになったことにより、無生物の中から生命が発生することは何億年かかっても起こり得ないことが判ってきました。細胞の構成物質であるアミノ酸のようなものは、自然界でも普通に形成されることがあるのは知られています。しかしアミノ酸と一個の細胞とでは、砂粒と超高層ビルとの差ぐらい、複雑さの点で大きな違いがあります。生命の最小単位である一個の細胞でさえ、それが形成されるためには、想像を絶するほど多くの幸運が重なり合わなければならないのです。

 

そこで、17世紀のフランチェスコ・レディによる対照実験を皮切りに自然発生説を否定する科学的実証が始まり、19世紀のルイ・パスツールの実験によって自然発生説はほぼ完全に否定されました。つまり無生物の中から一個の細胞が自然発生することは、大地の中から東京タワーが自然に出現することと同じく不可能なことです。たとえ大地に風が吹き、雷鳴がとどろき、何億年もの時間が過ぎても、大地の中から自然に東京タワーが出現するとは誰も思わないでしょう。同様に、無生物の中から生命が自然発生することはあり得ないのです。

 

そのような事情で、途方もなく長い時間に望みをつないだ進化論者の新たな自然発生説も、今日では全く根拠を失いました。しかし、一度持った信仰は、なかなか捨てられないように、今も進化論者は生命の自然発生を信じています。それはまさに空しい信仰に過ぎません。

 

生命は、無生物から発生するのではなく、ただ生命からのみ生まれるのです。聖書は、「いのちの息は、わたし(神)がつくったからだ」(イザヤ書5716口語訳) と述べています。生命は生命の根元である神から来たとする考えは自然発生説より遥かに理にかなったものなのです。

 

また、遺伝子工学の観点からも、生命の自然発生説は否定されます。生物の誕生において、「卵が先か、鶏が先か」ということがよく言われます。私たちは卵と鶏を見てみると、一見、卵のほうが簡単なもののように見えるので、きっと卵が先だろうと思ってしまうかもしれません。ところが、卵は1個の細胞で、その細胞の核の中には遺伝子が入っています。DNAとも呼ばれるこの遺伝子は、実は成体となった鶏が持つ遺伝子と全く同じもので、寸分の違いもありません。これは人間でも同様で、母親の胎内に宿った受精卵の中にあるDNAは、大人になった人間の各細胞にあるDNAと完全に一致するのです。

 

そして、一個のDNAの中には、百科事典の文字数に換算すれば1億ページ分に相当する膨大な量の情報が詰まっています。鶏の卵がどのように細胞分裂を繰り返して、どの細胞が目になり、耳になり、足になり、翼になるといったすべての情報とプログラムが、その卵のDNAに含まれているのです。

 

またDNAには、生まれてから死ぬまでの、その生物的要素に関するすべての情報が収まっています。つまり、成体の鶏になったときの生物的設計図のすべてが、その小さな卵の中に既に収められているのです。したがって、遺伝子情報の観点から見れば、卵も、鶏も、そのDNAは全く同じで、卵は親鶏がいなければ生まれないということです。なぜなら、卵にすべての遺伝情報を与えたのは親鶏だからです。

 

結論として、生物の歴史において、決して卵が先に誕生したのではないのです。最初に誕生したのは親鶏です。また人間で言えば、大人が最初に出現したのです。そして、それは聖書の記述に完全に一致するのです。

 

 

今日の一言: 初めに、神が天と地を創造された

 

 

鶴田健次

 

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2023.01.19 02:49 | 牧師室より

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救われるために洗礼は必要ですか?

 

 

A. いいえ。救いはイエス・キリストにある信仰だけで十分です。あなたがしなければならない事は何ひとつありません。キリストがすべてをして下さったからです。しかし、洗礼はとても大切で、すべて信じる者は洗礼を受けるべきです。もしあなたが救われた後で洗礼を拒否するなら、あなたの回心は疑わしいものです。
 
B. 救われるためには洗礼が必要であると信じている教派もあります。そこで使われている議論は表面的には強力に見えますが、調べてみると、洗礼は回心の後にされるものであり、回心のための条件、あるいは条件の一部ではありません。たとえば使徒行伝104447を取り上げてみましょう。ペテロが語っている間に、そのメッセージを聞いていたすべての人々の上に聖霊がくだりました。そしてペテロについて来た人々は、彼らが異言を語り、神を賛美するのを聞きました。それからペテロは、「この人たちがわたしたちと同じように聖霊を受けたからには、彼らに水でバプテスマを授けるのを、だれがこばみ得ようか」と言いました。
 
この御言葉は、洗礼が救われた後に執り行われていることを示しています。私たちは、彼らが救われたことをどうやって知ることができるでしょう。彼らは、神が信じる者たちに与えられる聖霊の賜物である異言を語り(1コリ14章)、神を賛美しました。神を信じない者は神を賛美しません。またペテロは、彼らが聖霊を受けたと言いました。それはクリスチャンのためだけのもので、洗礼の前に起ったことです。(注意:異言を語ることは単なる救いのしるしです。クリスチャンが必ずしも救われたことの証拠として異言を語るわけではありません。みんなが異言を語るわけではあり ません(1コリ1230)。
 
この問題に対するもうひとつの適切な御言葉は1コリント117です。パウロは、「キリストが わたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり……」と言っています。福音は、救いのためのもので、1コリント1514に説明されています。それによれば、洗礼は福音の一部ではありません。それは、信じる者が救いの後でするものです。
 
C. 洗礼は、単に救われることの象徴に過ぎません。象徴は救いをもたらしません。
 
D. 洗礼が救われるために必要であると言っている御言葉はありません。また洗礼を受けなければ裁かれると言われている御言葉もありません。しかし、信じない者は裁かれると言われている御言葉はあります。ですから、洗礼は重要ですが、救われるために必要なものではありません。
 
E. もし洗礼が救われるために必要なものなら、お産の時に死ぬ赤ちゃんは救われないことになります。また、死ぬ間際にキリストを信じ、洗礼を受ける前に死んだ人は地獄に行くことになります。
 

 

今日の一言: 救いはキリストを信じる信仰のみによるもの

 

 

鶴田健次

 


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2023.01.05 04:21 | 牧師室より

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闇は光に勝たなかった

  

最近よくメールで、「アメリカは正しい方向に向かっていると思うか?」というアンケートが送られてきます。それに対して、私はいつも「アメリカは間違った方向に向かっていると」と答えます。アメリカだけではありません。日本もヨーロッパも、世界中が私たちの期待とは違う方向に向かっているようです。いったい世界はどうなるのか、という不安を多くの人が抱いています。まさに終末の時代を予感させます。

 

政治も経済も大きな問題を抱えています。いつ世界経済が破綻するか分からない状態です。またエネルギー問題、資源問題、人口問題、食糧問題、環境問題、人権問題、倫理問題、宗教問題、南北問題、核問題など、多くの問題を世界は抱えています。その中で、それぞれの国は、羅針盤を失った船のように、方向性を見失って漂流しています。世界中の誰もが将来に不安を抱き、大きなストレスを抱えています。

 

こういう現実に目を向けると、人類の将来に希望を見出すことは困難です。しかし、その中で、一年の終わりを迎えながら、クリスマスの意味を心に留めるとき、そこに大きな慰めを得ます。

 

ヨハネ15節を見ると、こう書かれているからです。

「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」

 

たとえ、この世の悪がどんなに強大で、また闇がどんなに深くても、最終的には、どんな悪も闇も光であるキリストには勝てないのです。

 

また、ルカ21011節には、こうあります。

御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。』」

 

クリスマスのメッセージは、突き詰めれば、神の目には私たち人間の命は尊いもので、そのことを明らかにするために救い主キリストが来られた、ということです。これは、人間の尊厳を軽視するこの世の風潮とは、真っ向から対立する概念です。

 

ハンディを負った人、年老いた人、回復の見込みのない病人、生産性のない人、このような人たちに、生きる意味や権利があるのか? ノース・フロリダ大学のクリス・ガバード博士は、かつて、この種の問いに対してとても否定的な見解を持っていました。彼は、知的能力を高く評価するような環境に育ったために、「正常に機能しない頭脳」を軽蔑するようになりました。その結果、大きなハンディを負った人たちの自殺は、認められるべきであるという立場を取るようになりました。

 

ところが彼は、息子の誕生を通して、自らの見解に変更を迫られるのです。彼の息子は、出産の際に、脳に回復不可能な傷を負いました。そして今も、脳性麻痺のために盲目で、全身が不自由な状態にあるのです。

 

ガバード博士は、こう語っています。

「誕生した息子を見て、私の心は揺れた。・・・それまでは、このような状態の新生児は、生かしておかない方がいいと考えていた。しかし、今、目の前にいるのは、私の息子である。彼は、最先端の医療用保育器の中で眠っていた。・・・私を一番驚かせたのは、その子が私に似ていることであった。予想だにしなかった衝撃が、私を襲った。彼は、私が子供時代の写真から抜け出て、そこにいるかのような顔をしていた。」

 

今日、ガバード博士は、ハンディを負った新生児の尊厳を擁護する論客の一人になっています。2010年のギャラップの調査では、アメリカ人の46%が、自殺の手助けをすることを容認しているそうです。

 

このことに関して、ガバード博士はこう述べています。

「そのような善良な市民の多くが、私の息子の苦難を終わらせてあげたいと思っている。しかし彼らは、私の息子が本当に苦しんでいるのかどうか、立ち止まって考えようとはしない。もちろん、彼が不快感を覚えることは度々あるが、唯一の痛みというのは、彼ではなく、周りの人たちが感じているものだ。彼らは、私の息子のような人間が存在しているという現実に耐えられないのだ。」

 

ガバード博士の体験は、人間の尊厳というテーマを再考するように、私たちに迫ってきます。聖書は、人間は「神のかたち」に造られているがゆえに尊い存在なのであると教えています。人間の尊厳の根拠は、そこにあるのです。

 

外から見る人間の姿がその人のすべてではありません。それどころか、目に見える部分は、ほんの一部分に過ぎないのです。むしろ目に見えない魂と霊が、その人の本当の存在であり、それこそが神のかたちに似せて造られた尊い存在なのです。

 

ガバード博士は、脳性麻痺を負いながら生きている自分の息子を、こよなく愛しています。それは、その子が自分のコピーのような存在だからです。同様に、創造主である神は、「天の父」として、「問題の多い」私たちを愛しておられます。その愛の表現が、御子イエスが人となられたというクリスマスの出来事なのです。

 

もともと私たちの内には本当の愛などありません。私たちの愛は、自己中心の愛、条件付の愛です。本当の愛は神から来るものです。だから、神の愛を受けた者だけが、本当の意味で隣人を愛することができるようになるのです。今年のクリスマスが、神の愛を体験する機会となりますように。

 

 

今日の一言:クリスマスは神の愛の表現

 

 

鶴田健次


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2022.12.22 15:51 | 牧師室より

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