「ハマスの息子」
今回のイスラエルに対する悲惨なテロを起こしたハマスの創設者の息子モサブ・ハッサン・ユーセフは1996年にイスラエル軍に捕らえられた後、クリスチャンになり、現在はアメリカに亡命しています。イスラエルを憎んでいたパレスチナ難民の息子であり、ハマスの創設者の息子として恵まれた生活をしていた彼がなぜ、ハマスを裏切ってアメリカに逃亡したのでしょうか。
ユーセフ氏は、ある日エルサレムで聖書研究会に誘われ、新約聖書を読み始めた頃の体験を次のように語っています。
「最初(マタイの福音書)から読み始め、山上の垂訓にまで来た時、『このイエスっていう男はすごい。イエスが言っていることはすべて美しい』と感銘した。私は新約聖書を置くことができなくなった。一節一節が、人生の中で負った私の深い傷に触れていくようだった。とても単純なメッセージだったが、私のたましいをいやし、希望を与えてくれる力を持っていた。そして、次の言葉を読んだ。
『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。(マタイ5:43~45)
私はこの言葉を読み、雷で打たれたようになった。このような言葉を今まで聞いたことがなかったが、私が人生の中でずっと探してきたのはこのメッセージだということがはっきりとわかった。」
ユーセフ氏は、「敵を愛しなさい」というキリストの言葉に衝撃を受けて、それがきっかけでイエス・キリストを信じるようになりました。彼は自身の著書「ハマスの息子」の第15章、『ダマスカス・ロード』の中で、次のように書いています。
「私は(新約聖書の)最初から読み始めた。山上の垂訓の箇所を読んだとき、こう思った。ワーオー、このイエスって男は本当に感動的だ!彼の言うことはみんな素晴しい。
私は夢中で読んだ。どの節も、これまでの私の人生の傷に触れるようだった。メッセージは簡単なのに、なぜか私の魂を癒し、希望を与える力を持っていた。
それから、私はこの部分を読んだ。「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである」(マタイによる福音書5章43-45節)。
これだ!この言葉に私は雷に打たれたようになった。こんなことはかって一度も耳にしたことがない。でも、これこそが今までの人生でずっと私が求め続けていた言葉だった。
ここ数年、私の敵は誰なのか知ろうとしてもがいてきた。イスラエル人は私の敵ではない。ハマスも、伯父のイブヒラムも、M16銃床で私を殴った連中も、拘置所にいた猿のような看守も敵ではない。敵は国籍や、宗教、肌の色で決まるものではない。私たちすべての人に共通する敵が存在するのだ。強欲、傲慢、そして悪意と悪魔の支配する心の闇である。
…イエスは『人をさばくな。自分がさばかれないためである。』(マタイによる福音書7章1節)と言っている。アラーとはまったく違う!イスラムの神は裁く神であり、アラブ社会はアラーの教えに従っている。
イエスは律法学者とパリサイ人の偽善を非難した。…イエスが聖書で語っていることはすべて、私にはすんなりと理解できた。
圧倒されて、私は声を上げて泣き始めた。…私の生活の規範が突然劇的に変化した。コーランではなく聖書の影響を受けているのだから。
…それは1999年末のことです。私は21歳だった。私の人生は変わり始め、知れば知るほど混乱した。
『神よ、創造主よ。私に真実を示してください』私は来る日も来る日も祈った。『私は混乱しています。道を見失っています。どの道を行けばよいのかわかりません。』」
ユーセフ氏は、キリストが発せられた「敵を赦しなさい」という言葉によって、根底から変えられたのです。憎しみの応酬によっては、お互いの敵意を解決できないことを知って、彼はクリスチャンになったのです。
彼はまたインタビューに答えて、次のように言っています。
「1996年に私がイスラエルのスパイ活動容疑で捕らえられた後、ハマスを去ったのは、彼らの残虐さに耐えられなくなったからだ。自分はハマスのリーダーに属する家族たちの中で、とっても安定した立場が保障されていたが、彼らの残虐さのゆえに行動を共にできないと考えるに至った。
彼らはパレスチナ難民の命が失われることなど何とも思っていない。彼らは決して、パレスチナの人々に仕えているのではない。彼らはかつての「イスラム国」を樹立しようとしたテロリストと同じ目的を持っている。彼らは自分たちが信じる偏狭的な理想の実現のために、人間の命を失うことなど、何とも思ってはいない。
彼らは敢えて言うと、「今はイランに仕えている」だけだ。彼らはパレスチナ人を人間の盾として使っているだけだ。今後のパレスチナ人のことを考えたら、このハマスを壊滅させるしかない、今、パレスチナの人々のことが本当に心配だが、ハマスというテロリストを撲滅しない限り、パレスチナ難民の将来は開けない。」
ユーセフ氏は、パレスチナ難民のことを誰よりも心配して、心を痛めています。しかし、そのためには、ハマスというテロ組織を滅ぼすしかないと心から信じ、今は、イスラエル軍のガザ地区への侵攻に賛成しています。そのために、もちろん、一般市民を巻き添えにしないための最大限の努力を進めていますが、とにかく、ガザの地下に掘られたトンネルを無くしてしまわない限り、問題の解決は期待できないと言っています。ハマスの残虐さを誰よりも熟知している人の言葉として無視できないと思います。
今日の一言:あなたの敵を愛しなさい
鶴田健次
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マタイ10章28節の黙想
「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)
夫に対して強い妻でも、小さな蜘蛛を見て悲鳴をあげる女性がいます。しかし家が火事のときに、蜘蛛を怖がる女性はいません。また家の中に蜘蛛がいるからと言って、銃弾の飛び交う戦場に飛び出す女性もいないでしょう。大きな危険の前には、小さな危険や恐れは問題にならないからです。
恐れを克服するためには、「恐れないぞ」と決心するよりも、本当に恐れるべき方は誰であるかを知ることです。スコットランドの偉大な宗教改革者であるジョン・ノックスの埋葬の言葉は有名です。それは「神を恐れるあまり、いかなる人も恐れなかった者がここに眠る」という言葉です。
人が与える被害には限界があります。人が被害を与えるのは肉体と、この地上の生活に対してだけです。しかし神は肉体も魂も、この世でも、また来るべき世でも、すべてのものを永遠に滅ぼす力と権威を持っておられるのです。したがって人に対する恐れを克服するためには、神を恐れることを知ることです。
箴言1:7を見ると、「主を恐れることは知識の初めである」とあります。
私たちが知識または知恵について考えるとき、何を連想するでしょうか?学問の知識でしょうか?世間を渡り歩く知恵でしょうか?聖書は、「主を恐れること」だと言っています。また、この「知識の初め」の「初め」は、「第一」または「最優先事項」と訳せる単語が使われています。つまり、この世には色いろな知識があるが、主を恐れることに関する知識が第一であり、最優先事項であるという意味です。
そして、神の前に義とされ、神との平和な関係の中に留まるなら、人はいかなるものも恐れる必要のない者になるのです。
人を恐れる傾向はすべての人にあります。特に、圧倒的少数派である日本のクリスチャンは、圧倒的少数派であった当事のイエス様の弟子たちと一緒にこの言葉に聞く必要があります。私たちは、人を恐れるあまり、本当に恐るべき方を忘れる危険があるからです。私たちが本当に恐れるべき方は、「体は殺しても魂を殺すことのできない者」ではなく「魂も体も滅ぼすことのできるお方」なのです。
今日の一言: 人を恐れず、神だけを恐れる者とさせてください
鶴田健次
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『第二コリント4:7の黙想』
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(2コリント4:7)
この宝を土の器の中に持つ人生、つまりキリストを内に宿し、キリストが共にいて下さる人生は、問題だらけの世界に住みながらも同時に神の国の世界に生きる人生です。だから私たちは、四方から患難を受けても窮しない、途方に暮れるような事が起こっても行き詰らないのです。なぜなら、そこには物事に対する新しい解釈、永遠の視点から見た神の国の解釈が与えられるからです。それは本当に素晴らしい世界だと思います。
パウロは、この手紙の12章で書いていますが、あるとき非常に素晴らしい神秘的な体験をします。それは神様から天国を見せられるという体験です。その体験はあまりにも特別な体験なので、彼が思い上がることのないように、神様は彼の体に一つのとげを与えられました。そのとげとは、ある病気のことで、それは伝道者パウロにとっては致命的なものだったようです。
そこで彼は必死になって、この病気が癒されるようにと祈ったのです。しかしその病気は癒されませんでした。パウロには癒しの賜物が与えられていて、彼が祈ると他の人の病気が次々に癒されたのですが、彼の病気は癒されませんでした。ところが、その時、彼は神様の声を聞きます。「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」という語りかけでした。
そこでパウロは、目からうろこが落ちる経験をします。もし私に何の問題もなく、私が強ければ、私は自分の力に頼って生きていくことになっていた。それでは、私に出来ることしか出来ないことになる。しかし、この病気のおかげで、私も弱い人間であり、神様の恵みを必要としなければならない者であることを知らされ、それを祈り求める者とされている。だから神様が私を助けて、私だけでは出来ない筈の大きな働きをさせて下さるのだ。
であれば、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の病気、自分の弱さを誇ろう。たとえどんな困難や行き詰まりがあっても、それに甘んじよう。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからである・・・・・。そういう気付きが与えられたのです。人間の本当の強さとはそこにあるのです。
星野富弘さんの詩に「つばき」という詩があります。こんな詩です。
木は自分で動きまわることができない
神様に与えられたその場所で精一杯枝を張り、
許された高さまで、一生懸命伸びようとしている
そんな木を、私は友達のように思っている
これはきっと、ご自分のことと重ね合わせて歌ってらっしゃる詩だと思います。身動きもできない体になって、そこで初めて神様の愛に気付き、神様の愛の招きを受け入れることができた。頼りにならない自分の力で生きていたときには、人生の意味も目的も何も考えずに、ただ生きていただけだった。ところが、首から下が全く動かなくなり、もはや自分に頼れなくなって初めて、神様の手の中に自分を預けてみた。すると、こんな体にならなければ見えない世界が見えてきて、ただそれを詩に表わすことによって、何百万人もの人々に力と勇気と励ましを与えられる生き方ができている。そして、そういう生き様を通して全能全愛の神様を証しすることができている。
そして、来るべき時が来たら、この不自由な体から解放され、永遠に朽ちない栄光の体が与えられて、永遠の至福の世界に生きる者とされる。クリスチャンとは、この人生の解釈に生きる者です。だから、どんな事があっても強いのです。
将棋に勝つのは、将棋の駒が立派だからではありません。その差し手が強いからです。たとえ紙でできた将棋の駒であっても、将棋の名人は、その駒を使って、誰とどんな勝負をしても必ず勝つのです。私たちはいわば将棋の駒です。大切なことは、名人である神様の御手に自分を委ねることです。そうすれば勝利が与えられるのです。
今日の一言: 神の国の解釈をする者になろう
鶴田健次
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『第二コリント4:8-9の黙想』
「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(2コリント4:8-9)
『病床は人生最大の学校である』という言葉があります。また、『寒さに震えた者ほど、太陽の暖かさを知る。人生の悩みをくぐった者ほど、生命の尊さを知る』とは、アメリカの詩人ホイットマンの言葉です。
辛い病床生活の背後に神様の摂理があるということは確かですが、だからと言って、その状況を喜んで受け入れるというのは簡単ではありません。重い病気にかかったりすると、人生が暗いものに思われてきて、何かにつけ悲観的になりやすいものです。
人間は、元気で調子がいい時には、何でも自分の力でできるような気がするものですが、病気になると、別人のように弱気になってしまいます。それが人間の正直な姿だと思います。
ところが、絶望と逆境と孤独の中でこそ、人生の真実を見出すことができるというのもまた事実です。それは、私たちの困難のすぐそばに神様がいらっしゃるからです。
イ・チソンという韓国人クリスチャンのお証しをしたいと思います。2000年の7月、彼女は当時、女子大生でした。笑顔の絶えない、子供好きな彼女は、将来は子供に関わる仕事をするのが夢でした。ある日のこと、学校が遅くなった彼女は、妹思いのお兄さんに車で迎えに来てもらうことにしました。ところが、その帰り道、二人が乗った車は、酔っ払い運転の車に追突され、チソンさんは体中に大火傷を負うことになります。
救急車で病院にかつぎ込まれ、すぐに手術を受けた彼女は、火傷の中でも一番重い第三度の火傷、つまり内部の組織が破壊され皮膚が黒く焦げる状態、その第三度の火傷が体の55%に及んでいました。医者は一週間の命と診断しましたが、チソンさんは奇跡的に一命を取り留めます。しかし、指先は焼けただれてしまい、親指を除く8本の指が切断されてしまいます。落胆に泣き叫ぶチソンさんに、医者は、「言い難いが顔の火傷はもっと深刻だ」と伝えます。誰もが彼女の人生は終わりだと思いました。彼女自身も、「神様、私を長生きさせないでください」と泣いて訴えました。
ある夜のこと、病室で付き添って寝ていたお兄さんは、チソンさんが窓ガラスに映った自分を見て泣いているのに気づいて、声をかけると、「お兄ちゃん、どうして私を助けたの?私を殺して」と言いました。彼女は、どうしても、変わり果てた自分を受け入れることができなかったのです。
ほどなくして退院を許されたものの、毎日が苦しみと悲しみの連続でした。外出の際も、小さな子供たちに心ない言葉を投げかけられ、涙を流すこともありました。子供が大好きで、子供のカウンセラーになることを夢見ていた彼女にとって、それはとても残酷な現実でした。
しかしある時、神様は牧師を通して彼女にこう語り掛けられました。「チソン、私がお前をこの世界の真ん中に立たせてあげよう。苦しみ病んだ者たちへの希望のメッセージにしてあげよう。」 彼女は、その言葉を信じ、神様に感謝できることを数えることにしました。
顔は焼けただれたけれども、目には異常がなかったこと、切断するのは指先だけで、腕や足は大丈夫だったことなどを感謝しました。すると彼女は、「神様は、この体に奇跡を見せて、愛をお示しになる理由があるはずだ」という考えに満たされ、思わず神様をほめたたえる賛美を口にしました。
そして事故から5年後の秋、チソンさんはリハビリテーション・カウンセリングを勉強するために、ボストン大学の大学院に入学しました。リハビリテーション・カウンセリングとは、障害者となった人たちの心を癒すことを目的とするものです。チソンさんは、火傷で自分の顔が変わり果てた時の思いがどんなものかを理解できますし、人から興味本位で見られることの辛さも分かります。その心の傷をイエス・キリストの十字架の苦しみによって癒されるという経験を彼女はしました。ですから今度は、チソンさん自身が、心の痛みに耐えている人を理解し、受け入れ、その癒しの手助けをするようになられたのです。
周りの人は、チソンさんの人生は終わりだと言いました。しかし、彼女の本当の人生はそこから始まったのです。神様は約束どおり、チソンさんを、人々を助けるために、この世界の真ん中に立たせられたのです。
人生のほとんどの試練は、成功のための良い機会だというのが聖書の考えです。多くの場合、試練というのは、自分の思い通りにならないことを言います。しかし裏を返せば、明日のことも分からない自分の思い通りではなく、先の先までを見ておられる神様の完璧な計画を見出すチャンスがそこにあるのです。
今日の一言: 試練は成功のための良い機会
鶴田健次
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